この話のジャブラはかなりヒモっぽく、ろくでなしになりそうなので
苦手な方はご注意下さい。

*奥さまセカンドキッチン1*

 早く早くと気ばかり焦る。短く息を吐いて長い階段を駆け上がり、黒い髪を躍らせる。 握りしめた片方の手の中には7枚のコイン。届けたいのはそれではない。受け取ってくれるのは、それだけでも。

 「…ただいま…っ」
 大きなドアの前で呼吸を整えるように深呼吸をしてルッチはドアを押し開けた。それでもまだ息の塊が喉につかえて上手く声にならない。運動を止めた体はまだ熱を上昇させていて汗ばんでいく。
「おぉ、お帰り、ルッチ…。待ってたぜ」
 いつものようにジャブラが出迎えてくれてルッチはきゅっと唇を結んだ。かつての強さを秘めた表情からは想像出来ないくらいに淀んだジャブラの瞳を見つめてルッチは目を細める。そして知るのだ。あぁ、彼はまた今日も自分を迎えてくれたわけではないのだと。
 差し出される大きな手の上にルッチは汗で張り付くほどにきつく握りしめていたコインを落した。ジャブラはそれを数えるとへらりと笑い、ルッチの頭をぽんと撫でる。
「ご苦労だったな」
 それだけ言って、ジャブラはルッチと入れ替わりに部屋を出て行ってしまった。今日もジャブラは遅くまで戻らないのだろう。いつものことだと言い聞かせながらルッチは小さく笑った。

 労働の対価として支払われる7枚のコインは彼らの生活のすべてだった。エニエス・ロビーに住まう彼らにとって自由になる唯一の資金だ。しかし、ルッチが日々外に出て手に入れてくる700ベリーぽっちの小銭をジャブラはすべて奪ってしまう。
 一体、いつからそうなってしまったのだろう。二人が暮らし始めた頃、ジャブラもルッチのように任務で外に出ることが多かった。彼は小隊長的ポジションにあり、また機転も利く上に要領がよかったので任務のついでに小金を稼いでいたものだ。ルッチも彼に習って任務のついでに副業をしようとしたのだが根が真面目すぎたのか長官にバレてしまい、それならばと奥さまの技能を生かす派遣業を任務として与えられた。日給は700ベリーと定められ、文句も言わずひたすら忠実にルッチはそれをこなした。

 ある時、ジャブラが任務中に副業をするために現場を離れている間に事態が急変し、標的以外の人間を多く始末するハメになってしまった。その責任をとらされたジャブラは任務に出ることを許されず、謹慎処分となったのだ。 荒れたジャブラはルッチの稼いでくる僅かな金を憂さ晴らしに使うようになってしまった。

 どうすればいいかなんて考えなかった日はない。ルッチはため息をついて上着を脱いだ。長官にジャブラの謹慎を解いてくれと直談判したのも一度や二度ではないし、せめて司法の塔内で出来る仕事を与えてくれと懇願したこともある。けれど長官はそれを許してはくれなかった。もちろん、非があるのはジャブラの方だ。 長官の判断は正しい。標的以外を消す行動はいかに殺しの特権を持つCP9でも許されるものではない。職務により忠実なルッチにはよくわかっていた。けれど、願わずにはいられないのだ。かつての彼が自信に満ちていたことをルッチは知っている。何よりも彼が自分自身を大事にしてくれないことが辛く、歯がゆかった。

 「…そういえば…今日はこれを貰ったんだった…」
 ルッチはポケットの中に入っていた小さなピンクの包みを取り出した。派遣された先の女性が日給の他にくれたものだ。本来、こうしたものは受け取らないのだが、あまりに優しく諭されたものでつい受け取ってしまった。
「…甘い」
 それはいちごミルクの香りの石鹸だ。甘い香りに思わず頬が緩む。ルッチは汗ばんだ体を清めるため、入浴することにした。

 バスタブの中に浅く湯を溜めてルッチはさっそくいちごミルクの石鹸を泡立てた。雲のような泡が立ち、浴室いっぱいに甘い香りが広がっていく。
「…ジャブラは、嫌がるかも知れないな…強い匂いが嫌いだから…」
 誰に言うわけでもなくルッチは一人呟いて、甘い香りに包まれながら体を洗った。シャワーで体を流し、溜まった泡が流れていくのを見て、ふいにルッチは頬を濡らすものに気付いた。甘い香り、優しい温もり、それらがとても幸せだと感じた。それと同時に理解してしまったのだ。

 寂しいのだと。

 頭からシャワーを浴びてルッチは必死に顔を拭った。何度も何度も。些細な幸せさえ許されないもののように思えて、そんなことで簡単に砕けてしまう自身を恥じて、ルッチは動くことが出来ないでいた。

 太陽は沈まないが、時刻は深夜を回っている。ジャブラは大きな欠伸をしながら部屋に戻ってきた。ルッチから奪ったたった7枚のコインでここまで暇を潰せるのも才能のうちだと苦笑してドアを開ける。ルッチはもう休んでいるだろう。いつものことだ。食卓にはジャブラの分の食事が用意してある。これもいつものことだ。きっと明日の朝にはルッチの姿はなくて朝食と昼食だけがそこにあるのだろう。繰り返されるいつもの日常だ。ジャブラは顔を顰めて寝室を覗いた。案の定、ルッチはベッドの隅で小さく丸くなって眠っていた。起こさないようにドアを閉めようとしたがジャブラの鼻が嗅ぎ慣れない匂いを感じてぴくりと動く。
「…なんだぁ? 香水…か?」
 鼻を動かしながらルッチに近づいて、ジャブラはその正体に気付いた。
「…あァ…石鹸か…、にしても…ずいぶん甘い匂いだな…ぎゃはは…」
 子供には似合いの匂いかも知れない。甘いお菓子のような匂いだ。先に浴室の前を通った時も同じ匂いがした気がする。ジャブラは鼻先をルッチに擦りよせた。
「…ルッチ」
 呼んでみても返事はない。ルッチはただ静かに眠っていた。その寝顔は穏やかで少し微笑んで見える。ジャブラはそっとルッチの頬を撫でた。少し、痩せたように感じられてジャブラは顔を顰めた。

 いつも奪い取るだけのこの手で、ルッチがより幸せになってくれればいいのに。

 触れることさえ許されないように思えてジャブラは手を離した。
「…明日も、しっかり稼いで来いよ…」
 歯がゆさ苛立ち罪悪感、込み上げるものは多くあるがジャブラはそれらを押し込んでしまう。押し込んだそれらの代わりに滲み出たものは服の袖で拭い去る。

 あの甘い香りのせいだ。優しくて甘くて柔らかそうで、きっと幸福はこういう匂いをしているに違いない。それはずいぶん遠くにあるものに思えた。



奥さまセカンドキッチンは「ヒモな旦那さまジャブラと派遣奥さまルッチ」がテーマです。
この二人はお互い気に入って旦那さまと奥さまの生活をしている様子。
ちなみに、奥さまの日給が700ベリーなのは「ねこねこ奥さまバイブル」が700円だから。Sさんの発案です。

2008/11/21アップ 籠城


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